花屋カフェflowerparc二度目に訪れたのは、受験に失敗して引きこもった後、心配した姉が荒療治と称して無理やり二度目のオープンキャンパスに誘った日だった。……行きたくないけど、お姉ちゃんが待ってる。そう思うと約束をすっぽかすこともできず、それでも前向きにはなれなくて駅から大学までの道を時間稼ぎのようにトボトボと歩いて向かっていて。一年前と同じように、その綺麗な外観にまた目が惹きつけられふらりと中へ入ってしまった。窓側のテーブル席で、ぼんやりと窓の外を見ていると、大学生っぽい人たちが通り過ぎていく。私、あんな風になりたかったのかな。わかんない。ただ、高校を卒業して次へ進むなら、お姉ちゃんや悠くんと同じ場所に行きたかった。そんな不純な動機しかなかった自分が情けなくて、かといって何がしたいのかわからなくてすっかり私は迷子だった。オーダーしたカフェオレが運ばれてきた時、外を女子高生の集団が賑やかに通り過ぎて、再び窓の外へ視線が向いた。店の中にまで聞こえるくらい元気の良い声だった。「びっくりした……賑やかですね」「今日は、この先の大学でオープンキャンパスがあるらしいです。そのせいですね」私の言葉に、カフェオレを運んでくれた綺麗な男の人が応えてくれて、思えば家族と悠くん以外の人と話をするのは、これが久しぶりだった。「はい、私も今から行く予定で……ちょっと寄り道しちゃって」「そうでしたか」「いいなあ、元気いっぱいに、飛び出す寸前って感じ。大学生になるのが楽しみで仕方ないんだろうなあ」一年前の私って、あんな感じだった。すっかり、飛び損ねちゃったけど。卑屈になっていく私の気持ちが、伝わったのかどうかはわからない。けれど、マスターがくれた言葉が固くなった私の心をほぐしてくれた。「そうですね、でも。時には立ち止まって道を眺めながら、ゆっくりとお茶を飲む時間を持つのもいいですよ」私の事情など何も知らないのに、立ち止まってもいいのだと、言ってくれた。それまで誰の言葉にも応えなかった心が、まったく知らない人との会話だったからかマスターの雰囲気がそうさせたのか。言葉が胸に沁みて、カフェオレを手にもつと手のひらからもじんわりと温もりが伝わって。気が付いたら、涙が零れてた。一度その場を離れたマスターが小皿にチョコレートチャンクのクッキーを運ん
「そっか……よくあることなんだ……」一瀬さんの言葉で、まるで拍子抜けしたみたいに気が軽くなったのを感じた。何だか、自分だけが精神的にひ弱で甘えてるのかと、そんな気がしていたから。その時、カウベルがコロンと鳴って来客を知らせた。慌ててカップを置いて入口に目を向けると、よく見知った人が私に向かってひらひらと手を振った。「苑ちゃん!」手を振り返すと、苑ちゃんはカフェスペースには入らずに花の陳列のところで屈んで花を眺め始めた。私は「ちょっと行ってきます」と二人に声をかけて立ち上がる。「お友達?」「姉の親友なんです。私もしょっちゅう一緒に遊んでもらってて……高校生の時からお花屋さんでバイトしてるからブーケでも少し相談に乗ってもらったんです」それだけ言うと、ぺこりと頭を下げて苑ちゃんへと近づいた。「苑ちゃん! 見に来てくれたの?」「んー? 咲子と約束があるからさ。どうせなら綾のとこで待ち合わせようってことになって。パンジーのブーケ、水揚げも上手くいったみたいだね」「うん、ありがと! 苑ちゃんのおかげ!」水がなければすぐに萎れてしまうパンジーをどうやって花束にするのか……実はネットで調べても母に聞いてもよくわからなくて、花屋でバイトしている苑ちゃんに協力してもらった。フローリストになりたいらしくて、大学以外でも独学でずっと勉強している頑張り屋さんだ。苑ちゃんはちらりと腕の時計を見ると、少し考えて一つの花を指差した。入荷したばかりの槍水仙で今店頭で一番のピチピチちゃんだ。「咲子が来るまでちょっと時間あるし。綾、これでブーケ作ってくれない?」「うん、いいけど、スイーツプレートとセットにする?」「珈琲だけもらうからいいや。これは単品で」頷いて花を数本、花付の良さそうなのを選ぶ。私なんかよりずっと先輩の苑ちゃんにブーケを作るのは、ちょっと緊張してしまう。「他の花はどうする?」「全部綾にお任せ」「えーっ」お任せって、余計にやりにくい。唇を尖らせて苑ちゃんを見ると、意地悪そうに私を見て笑っていた。「もー……わかった。やってみる。あっちで珈琲でも飲んで待ってる?」「ここで見てる」「えぇぇ……」またしても情けない声を出した私に、苑ちゃんがけらけらと声を上げて笑った。びくびくしながらも幾つか他の花を手に取り槍水仙と合わせては戻す、を繰
だって、私は苑ちゃんも大好きだから。そう思うと悲しくなって、へらって弱弱しい笑顔しか出なくて。「……だからってわざわざ後押ししなくてもよかったんじゃない? どーせ、そのうちくっつきそうだったんだし」って苑ちゃんが冗談めかして言ったけど、とても冗談には聞こえなくて。返す言葉が見つからずに、ブーケに集中するフリをするしかなかった。それきり会話は途切れて私はブーケ作りに没頭する。最後に持ち手の部分に結ぶリボンの色を苑ちゃんに選んでもらうと、彼女はパステルグリーンの細いリボンを指差した。「はい、出来ました!」ラウンド型の丸みのある可愛らしい形に仕上がって、これは褒めてもらえるんじゃないかなって、自信たっぷりに苑ちゃんに差し出した。「ん、まあまあじゃない?」「ええっ?! 結構自信作なのに!」「あはは! ?だって。すごくいいよ。上手いじゃん、綾」笑いながら苑ちゃんはブーケを受け取って、槍水仙に顔を近づけて目を閉じる。「いい香り。私、イキシア大好きなんだよね」「え、それ槍水仙じゃないの?」「それは和名。最近はイキシアって呼ぶ方が多いんじゃない?」苑ちゃんはとても大切そうに花束を抱きしめて、深く息を吸い込んで。「花言葉は『秘めた恋』だって」そう言いながら、目を伏せて微笑んだ。ガラス窓の外を見ながらブラックコーヒーを飲む苑ちゃんは、なんだかとても大人っぽい。ひらりと苑ちゃんの手が揺れて、窓の外の大通りを見ると早足で姉が歩いてくるのが見えた。……んん?お姉ちゃん、なんか怒ってる?姉が珍しく、私がよくするみたいに唇をつんと尖らせて拗ねたような表情をしていたような気がした。カラコロとカウベルが鳴ってすぐ、姉は私に小さく片手をあげて「紅茶ちょうだい、あったかいの」とだけ言って、まっすぐ苑ちゃんのいるテーブルに向かい正面に座る。一瀬さんが入れてくれた紅茶のカップをトレーに乗せて運んで行った時、姉が控えめではあるけれどテーブルを叩く仕草をして驚いた。「なんで言ってくれなかったのよ」「あはは、うん。ごめんね?」どうやら、苑ちゃんが怒らせたらしい?私が首を傾げておろおろしながらも姉の前に紅茶を置くと、私をちらりと一瞥した。「……苑ちゃん、大学辞めるんだって」「え……ええっ?! なんで?!」「専門学校に行くんだって、フラワーデザインの」
「ああ……本当ですね。こうしてみると、雰囲気が綾さんとお姉さん、よく似て見えます」「……あの。それってどういう……」それって私が見るからに甘えん坊ってことでしょうか。その通りだけどまさか一瀬さんにそんな風に言われるとは思わなくて、ちょっと唇を尖らせて拗ねた顔で拭いたお皿を一瀬さんに差し出した。すると、一瀬さんがふっと苦笑いを零してお皿を受け取る。「……そっくりですよ、その表情」言いながら視線を姉がいる方へと向けた。見ると、姉も私と同じように唇を尖がらせたまま上目使いで苑ちゃんを睨んでいた。「あんなに思いっきり、拗ねてないですもん」そう言って、きりっと表情を引き締めて見せると。すると、一瀬さんはいきなりくるっと背中を向けて、「ぶふっ」と吹き出し肩を震わせた。「ちょっ……ひどいですそんなに笑うなんて」「なになに、えらく楽しそう」恥ずかしくなって、顔が熱くなったところに片山さんも厨房から顔を出す。私はまだ肩を震わせる一瀬さんを指差して言った。「マスターが笑うんです、私が甘えん坊だって!」「え、それ今更笑うとこ?」「片山さんまでひどい!」確かにそうだけど、ずっと甘えてたけど!これでもちゃんとお姉ちゃんや悠くんから卒業しようと頑張ってるのに!そう思いながら、結局口元が自然と尖がる私は、きっと間違いなく子供っぽい。だけど、そんな私を見て片山さんはもちろん、一瀬さんまで楽しそうに笑ってくれたから、なんだか少し嬉しかった。最初は怖いだけだった一瀬さんが、この頃ちらちらと笑った顔を見せてくれることが多くなったから。だから、私は今のこのお店の空気が、とても好きだ。少しずつお客さんが増えてきているのも、そういうのが案外お客さんにも伝わってるのじゃないかなって思う。最近よく来る若いカップルさんも、カウンターで私や一瀬さんと話しをしてくれて、楽しいと言ってくれる。カフェのメニューやブーケは勿論、こんな風にお店の空気に惹かれてお客さんが来てくれるっていうのも、いいなって思えた。「わあ、綺麗! いい香り!」姉の少し興奮したような高いトーンの声が響いて、はっきりと耳に届いた。見ると手を口にあてて肩を竦ませながらも、ブーケを片手に嬉しそうに笑っている。「あ……あれ、お姉ちゃんにだったんだ」拗ねている姉のご機嫌をとる為のブーケだったのかと
せつなかったのは、私の失恋に対してではなく、苑ちゃんの気持ちを想ったからで……自分自身の痛みではなかったことに気が付いた。それはきっと、このカフェの存在のおかげに違いないけれど。毎日この店に通って、優しい空気に触れて自分に出来ることを見つけて……姉や悠くんに依存していた心が少しずつ自然に、離れることが出来ているんだ。「ありがとうございます。何気に優しいですよね片山さんって」銀のトレーに水の入ったグラスを乗せて、ふふ、と笑ってみせると、片山さんはちょっと頬を染めて。「俺は女の子にはいつも優しいの」と、照れ隠し丸出しの発言をした。「はい、そうでした。いつも優しいですよね」初めて片山さんを揶揄できる立場に立ったとちょっぴり優越感を抱きながら、水のグラスを持っていこうと踵を返す。すると、悠くんが二人に手を振ってテーブルを離れるところだった。「あれ? 悠くん、帰っちゃうの?」少し大きめに声が届くように尋ねると、悠くんはこちらを向いて私にも手を振ってくれた。「姿が見えたから寄っただけ。ごめんね邪魔して」そう言って、足早にお店を出て行った。「なんだ。一緒にご飯でも食べに行くのかと思った」グラスの乗ったトレーをカウンターに戻しながら、私は少しほっとしたことは否めない。あの三人の構図が少し前の私達三人に見えて、私と同じ立ち位置になる苑ちゃんの気持ちを想うと少し胸が痛かった。もう一度、悠くんの去った二人のテーブルに目を向ける。私はそこで、まるで映画のワンシーンのような一瞬に目を奪われた。「……」声が出ない。苑ちゃんからはさっきの悠くんがいた時のような、棘さえ感じるような無表情は消えていた手元の花の香りに恍惚として目を閉じる姉の横顔に、そっと伸びていく細い指先。苑ちゃんの横顔はまるで何かを慈しむように和らいでいる。その横顔が、誰かのものに重なる錯覚に、私は目を瞬いた。「綾さん? どうかしましたか」一瀬さんのその声も、確かに聞こえているのになんだか遠くて、すぐには反応できなかった。指先が頬に触れて、気づいた姉が顔を上げる。何かを拭うように親指が動いて、すぐに離れていった。「綾さん?」「あっ、はい! すみません、なんでもないです」もう一度尋ねられて慌てて一瀬さんに向けて頭を振った。そしてすぐに視線を戻すと、苑ちゃんが親指を見せて
季節は春。通りの向こう側にある桜の木から、風に吹かれたピンクの花びらが舞い散る中、初々しい新入生らしい姿が緩やかな坂を上っていく。私は未だフリーターのままだけど、そんな季節を案外穏やかに見送ることができ、葉桜に変わったところで急激に気温が上がった。ツツジの花が色とりどりにあちこちで咲き始める季節、特にカルミアという花が私は好きだった。小さな蕾が密集して、すべて開くと白いパラソルが開いたようになる。……可愛いパラソル。こんな白い日傘が欲しいな。そう思いながら、今日も軽やかにカフェまでの傾斜を歩いた。「おはようございまあす。あ、マスター手伝います」「おはようございます。こちらは大丈夫ですから、カフェの方の準備をお願いします」店に着くと、一瀬さんが花屋スペースの掃き掃除をしてくれていて、近寄った私に目線でテーブル席の方を示した。私は「はあい」と返事をしてから、荷物をカウンター下の手荷物置き場に押し込みショートエプロンを腰に巻く。この頃は、以前より少し早めに店に来るようにしている。でないと、一瀬さんが花屋の方の片付けを全部ひとりでしちゃうから。掃き掃除なんかはやらせてくれるけど、お花の処分はやっぱり私にはさせないように考えてくれている気がする。今日も多分、さっきまでお花を刻んでいたんだろう。だって、私がしていたみたいに、まだ傷みの少ない花を落として作業台に置いてくれているのが見えたから。「……仕事だから、そんなに気にしないで欲しいのに」以前よりはずっとお客さんも増えてブーケや切り花も売れ始めたから、処分する数は減ったと思う。それでも、一瀬さんは自分で処分しようとして、私の手は煩わせまいとする。どうしても処分する切り花が出るのは、仕方ないことだと思うのに。私は作業台に置かれた花を手に取って、一瀬さんに振り返った。「マスター、これで今日はドライフラワー作ってもいいですか?」いつもは生花のまま飾るのに、と思ったのだろう。一瀬さんは不思議そうに首を傾げた。「ドライフラワーですか? 構いませんが……」「シリカゲルに入れたら、綺麗な色のまま乾燥させることができるんです。それをガラスの器に入れて飾ったら頻繁に入れ替えなくても済むし……」上手に作る練習にもなるかな、と思って。ドライフラワーをいれたフラワーボックスとか、例のセットで選べ
「綾ちゃんは、いつがお休みなの?」「毎日フル出勤です」「へえ、そっか。じゃあ定休日、いつだっけ?」「……水曜です」これは答えないわけにはいかなくて、渋々といった調子をわざと見せて言うけれど。「じゃあ、水曜なら遊びに行けるんだ」「行けません」「冷たいなあ。でも夜だったら尚更誘ってもきてくれないでしょ?」にこにこと笑って勝手に話をつなげる、この人にはまるで通じない。仏頂面で目も合わせないでいると、お手洗いから静さんが戻ってきていた。「もう、聡……また綾ちゃんに迷惑かけてたの?」「違うよ、ちょっとからかってただけ」困ったように眉尻を下げる静さんが、私に「ごめんね」と両手を合わせた。私は笑って顔を横にふるけれど……。からかってただけ?!よく言う!と、飄々と言ってのける男を睨んだ。静さんが居ない時、しょっちゅう私に話しかけて食事だなんだと誘うくせに。それだけじゃない、他にもいろんな女の人とここへ来る。少し前には、休日の朝早い時間帯にショートカットの女性とやってきた。珍しい時間帯だな、と思っていると片山さんが言ったのだ。『あー……ありゃ、朝帰りかな』女性の細い腰を抱いて密着して入ってきた様子を思い出すと、腹が立って今すぐここでぶちまけてやりたいと思ってしまう。言わないのは、静さんが悲しむのがわかってるからだ。彼女と歩く時、この二人はそんなにベタベタくっついて歩いたりはしない。他の女の人とそんな風に歩いてると知ったら……傷つくに決まってる。カラコロとカウベルが鳴って、お客様かと思ったら一瀬さんがビニールの袋をぶら下げて入ってきた。カウンターに座る二人を見て、薄く微笑むと「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」と挨拶を交わしながらカウンターまで辿り着き、私は野菜の入ったビニールを受け取ろうと手を差し出す。「買い出しお疲れ様です」「いいえ。ホールお任せしてすみません」ビニール袋が手渡される瞬間、不意に顔が近づいて一瞬どくんと心臓が鳴った。「何もありませんでしたか?」小声でそう尋ねられても、妙に狼狽えてしまった私はただ瞬きをして「えっと、何も?」と大した返事もできなかった。何か、っていうのが何をさしているのかもよく理解できなくて。それでも一瀬さんは納得したのか、一度頷くと「何もないならいいです。すみませんが
私の表情が固まったことに片山さんが気付いたのか、ふっと我に返ったように目を見開いた。慌てて作業台から腰を離し取り繕うように言葉を繋ぐ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」いつも揶揄するような言い方をしてもどこか優しい片山さんが、明らかに苛立ちを滲ませたことに私も少し驚いた。けれど、こうして私よりずっと背の高い人が素直に項垂れるのを見ると、怒る気もほんの少し傷ついたこともすぐに薄れてしまった。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」笑顔で首を振って大丈夫だと言ったのに、片山さんは眉を下げ切なげに目を細めていた。「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」「えっ……」そんな表情で近づかれたら、私の失恋でそんなに心配をかけてしまってるのかな、と私の方が申し訳なくなってしまう。私は俯いて、片山さんの問いかけの答えを探した。悠くんのことは今も好きだけど、それは本当に恋だったのかなと今になるとよくわからない。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」静さんと話すようになってふと考えたことがある。苦しくても想い続けたり傍に居続けるなんて、私にはとてもできなかったし考えもしなかった。静さんの恋に比べて自分の気持ちはとても幼く、本当に恋だったのかとさえ思ってしまう。「自分でも、よくわからないですけど。悠くんの顔を見ても、もう割とへっちゃらだし」いつかまた、誰か好きになったら……その時に、今はわからないことも理解できるようになる、そんな気がする。だから今は案外前向きなのだと笑顔で顔を上げたら、思ったよりも近い距離に片山さんが立っていた。「……だったら、いいけど」急になれない雰囲気に飲みこまれて、後ずさりもできなかった。厨房の明りが片山さんの真後ろにあり、表情に陰りを作る。何もされているわけじゃないのにひどく威圧を感じるのは、目の前の人が急に「男の人」に見えたから。「静さんに感情移入しすぎて、失恋の傷も癒えてないだろうにって思ったら……」心配でさ。と小さく付け足した片山さんを見上げて、私は言葉を探すこともできず身動き一つできなかった。片山さんの手が近づいてきて、ああ、大きな手だなって
彼女さんも彼氏さんもお互い仏頂面で、向かい合っていても目線を合わせようとはしない。「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」気まずい空気の中、コトンコトンと水のグラスを置いて尋ねると。「「ホットで」」と声を揃えて返ってきました。お二人、なんだか反応が似ているというか……カップル、というよりもしやご夫婦なんでしょうか。二人、一瞬目を合わせたと思ったら、ふいっと彼女さんの方が目を逸らしてしまいました。なんだかはらはらしてしまうけど、私がどうにか出来ることでもありません。「かしこまりました」と、お辞儀して離れようとしたら。「いつまでもしょうもねぇな。いちいち真に受けるなよ」「……わかってるわよ。だから何も言ってないじゃない」あわわわわ。喧嘩が始まってしまいました。「言ってなくても顔に出てる」言われてむっとした彼女さんが、また黙り込んでそっぽを向いた。よくよく見ると、目がじわーって……あああ、目が潤んでしまってますけど……。立ち去るに立ち去れなくて、いやオーダーはもう聞いたのだから、中途半端にここで立ってるほうが失礼なのだけど!ハラハラして見守っているというのに……あろうことか彼氏さんは、彼女さんにさらに追い打ちをかけたのだ。「……ほんと、めんどくせえ」ガン!とショックを受けたのは彼女さんだけじゃない、私もだ。だって、まさか半泣きの彼女さんにそんな酷いこと言う人がいるなんて……。えええええ……。慰めるとかせめて宥めるとか、そういうのはないんですか?彼女さん、涙目どころかすっかり意気消沈して背中に影を背負って俯いてしまいました。私は中途半端に立ち去りかけた、少し離れた距離で身体半分振り向いて見守って……あ、いけないいけない。オーダーを早く伝えに戻らなくちゃ。それに……先日、聡さん静さんの一件で、一瀬さんに怒られたばかりです。余計な口出しをして、お客様を怒らせたらいけません。はい、至極当然普通のことです。私の方も意気消沈して、その場を今度こそ離れようとした時。「恵美……こんなとこで泣くな勿体ない」深々とため息と同時にですが、漸く彼氏さんが慰めるような言葉をかけたことにすごくほっと……って、え?勿体ない……ってどういう意味でしょう。結局立ち止まって振り向いてしまうと、彼氏さんが恵美さんをちょいちょいと指で
【番外編:お客様色々ショートショート】静さんと聡さんがラブラブになってからどうも、このカフェのお客さんはカップルが増えたような気がする。カラコロと今日もカウベルが来客を知らせてくれた。「いらっしゃいませ」顔を上げると、とびきり美男美女のカップルが入ってきた。多分、新しいお客さんだ。女性はすごく可愛らしい人だけど、なんだかぷりぷり怒ってる様子だった。「普通する?! あんな道端で!」ほんのり頬を赤く染めて、怒った顔もなんだか可愛らしい。くつくつと笑いながらほんの少し後ろを歩くスーツの男性もとても綺麗な人だった。「結構見るけどな? 路地裏だと」「私はしないの! 最低、知らない人に見られたし」テーブルについても女性はまだ唇を尖らせて文句ばかり連ねている。どうも、彼氏さんが路地裏で何かして怒らせたみたいだけど。彼氏さんの方は怒った彼女も好きで仕方ないみたいで、向い側から手を伸ばして髪を撫でるその横顔が、とても優しい。彼女さんに、振り払われてるけど。「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」なんか二人の空気を邪魔するのが申し訳ないけど、私には注文を聞かなければならないという仕事がある。グラスを二つとんとん、と置くと彼女さんがメニューを眺めながら言った。「これ、ブーケは好きな花を選べるの?」「あ、はい。今はこの三つから選んでいただいてて……」「なんだかんだ、春妃も可愛いもの好きだよな」彼女さん……春妃さん、と
「勿論、喜んで。どれくらいの大きさにしましょうか? 予算とかありますか? 他の色味もいれます?」静さんの表情が、何かを振り切ったかのようにぱっと鮮やかに華やいだ。だから私も張り切って静さんの隣に立って他の花を見渡す。だけど彼女は、頭を振ってピンクのバラを指差した。「この花だけでいいわ、予算も気にしないから、嫌味なくらい大きな花束を作って」「嫌味なくらい、ですか」「全部使ってくれてもいいわよ」「ええっ?!」驚いて静さんの顔を思わず振り仰いだ。憂いは、もう見えない。だけど、妖艶で悪戯な表情を初めて見せる静さんに、女の私がなぜかどきどきしてしまった。 聡さんが来たのは、それから三十分が過ぎてからだった。店にもうお客様はいなくなって、そろそろクローズにするか一瀬さんに聞こうかと思い始めた頃になって、カランコロンとカウベルが鳴る。「こんばんは、綾ちゃん」へらへらと笑って入口付近で立ち止まる聡さんに、カフェ側に居た私は「いらっしゃいませ」の言葉も出ずに歩み寄る。聡さんはわざとらしく店内を見渡してから言った。「静、帰っちゃったかな? 待ち合わせだったんだけど」「もう、とっくに帰られました」あきらかに素っ気ないはずの私の声にも、懲りることなく彼はレジカウンターの中に入る私に近づいてくる。「ああ、残念行き違っちゃったかな。じゃあ、もう仕方ないし」「……」「もう、閉店でしょ。綾ちゃん、これから食事でもいかない?」それを聞いた途端、堪忍袋の緒が切れるというのはこういうことかと思うくらい、自分の中で何かが爆発するのがわかった。「静さん……ずっと、待ってたんですよ?!」お客さんがいないこともあり、つい声を荒げる私に、彼は眉を顰める。だけど完全に頭にきていて、何も見えなくなっていた。私はレジ横に置いてあった静さんに託された花束を手に取ると、彼にやや乱暴に押し付ける。ピンクの花びらが一枚、彼の足もとにひらりと落ちた。「な、なんだよこれ」「頼まれたんです! せめてそれくらい受け取ってあげてください」たかがカフェの店員に、なぜこんなことを言われなければいけないのか……不服そうに顔を歪めたのは、なんだかそれだけでは無さそうに見えた。どこか、ばつが悪そうな表情にピンと勘が働く。わざとなんだ、やっぱり。「なんで……なんで約束守らなかったん
小さく舌を出して、ぷいっとそっぽを向いて離れると、片山さんの情けない声が聞こえた。「えっ、ちょっ、ごめんって」「しりませーん」と背中を向けたままカウンターに戻ると、ちょうど静さんが立ちあがったところだった。「あっ、おかえりですか?」「ええ、今から映画を見に行く予定なの。篠原監督の、ほら」「あっ、戦場のバラ? テレビでもすごく宣伝してますよね!」いいなあ、とうらやましく見つめると、静さんは嬉しそうに笑って聡さんの腕を引く。「早く行こう? 始まっちゃう!」「はいはい。……俺、恋愛モノって全く興味なんだけどなあ」彼はすこぶる面倒くさそうに言いながら、丁度の金額をカウンターの上に置いた。そんな様子にも、静さんは嬉しそうに頬を綻ばせる。「ありがとうございました」必要以上にくっつくこともなく、ただ隣で彼の袖にそっと触れる……それだけなのに。あの人が連れてる他の女性の誰よりも、幸せそうに笑ってる。温度差を感じてただただ、苦しい、そんな二人の背中を見送った。静さんがいつもと違う様子で店を訪れたのは、それから一週間後のことだった。「いらっしゃいませ」私が笑顔で迎えると、いつも通りに笑ってはくれた。だけど、それはどこか弱々しく覇気がなく、いつもならカウンターに座るのに、今日は窓際のテーブル席だった。「今日は、待ち合わせですか?」「そうなの。ちゃんと来るかしらね……」水のグラスを目の前に置いて尋ねると、肩を竦めて冗談ぽく言ったけど。来ますよ、当然じゃないですか、って。その場しのぎの慰めみたいで口に出すのを躊躇ってしまった私を、静さんが見上げて笑った。「なんで綾ちゃんが泣きそうなのよ」「えっ? いえ、そんなことないですよ?」「すごく心配って顔に書いてある」私って、そんなに顔にでるのかな?「すみません」と頬を摩りながら悄然としていると、クスクス笑われてしまった。「あの人、約束は破ったことないのよ。ただ、今日は大事な話があるって言ったから……逃げるかもねって、思っただけ」「そう、なんですか」当然、どんなお話なのか尋ねるわけにはいかないから相槌だけ打ったけれど、もしかして別れ話だろうかと気になって仕方がない。だけど静さんからはそれ以上話は続かず、ホットミルクのオーダーを承って会話は終わってしまった。カウンターからテーブル席を見
私の表情が固まったことに片山さんが気付いたのか、ふっと我に返ったように目を見開いた。慌てて作業台から腰を離し取り繕うように言葉を繋ぐ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」いつも揶揄するような言い方をしてもどこか優しい片山さんが、明らかに苛立ちを滲ませたことに私も少し驚いた。けれど、こうして私よりずっと背の高い人が素直に項垂れるのを見ると、怒る気もほんの少し傷ついたこともすぐに薄れてしまった。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」笑顔で首を振って大丈夫だと言ったのに、片山さんは眉を下げ切なげに目を細めていた。「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」「えっ……」そんな表情で近づかれたら、私の失恋でそんなに心配をかけてしまってるのかな、と私の方が申し訳なくなってしまう。私は俯いて、片山さんの問いかけの答えを探した。悠くんのことは今も好きだけど、それは本当に恋だったのかなと今になるとよくわからない。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」静さんと話すようになってふと考えたことがある。苦しくても想い続けたり傍に居続けるなんて、私にはとてもできなかったし考えもしなかった。静さんの恋に比べて自分の気持ちはとても幼く、本当に恋だったのかとさえ思ってしまう。「自分でも、よくわからないですけど。悠くんの顔を見ても、もう割とへっちゃらだし」いつかまた、誰か好きになったら……その時に、今はわからないことも理解できるようになる、そんな気がする。だから今は案外前向きなのだと笑顔で顔を上げたら、思ったよりも近い距離に片山さんが立っていた。「……だったら、いいけど」急になれない雰囲気に飲みこまれて、後ずさりもできなかった。厨房の明りが片山さんの真後ろにあり、表情に陰りを作る。何もされているわけじゃないのにひどく威圧を感じるのは、目の前の人が急に「男の人」に見えたから。「静さんに感情移入しすぎて、失恋の傷も癒えてないだろうにって思ったら……」心配でさ。と小さく付け足した片山さんを見上げて、私は言葉を探すこともできず身動き一つできなかった。片山さんの手が近づいてきて、ああ、大きな手だなって
「綾ちゃんは、いつがお休みなの?」「毎日フル出勤です」「へえ、そっか。じゃあ定休日、いつだっけ?」「……水曜です」これは答えないわけにはいかなくて、渋々といった調子をわざと見せて言うけれど。「じゃあ、水曜なら遊びに行けるんだ」「行けません」「冷たいなあ。でも夜だったら尚更誘ってもきてくれないでしょ?」にこにこと笑って勝手に話をつなげる、この人にはまるで通じない。仏頂面で目も合わせないでいると、お手洗いから静さんが戻ってきていた。「もう、聡……また綾ちゃんに迷惑かけてたの?」「違うよ、ちょっとからかってただけ」困ったように眉尻を下げる静さんが、私に「ごめんね」と両手を合わせた。私は笑って顔を横にふるけれど……。からかってただけ?!よく言う!と、飄々と言ってのける男を睨んだ。静さんが居ない時、しょっちゅう私に話しかけて食事だなんだと誘うくせに。それだけじゃない、他にもいろんな女の人とここへ来る。少し前には、休日の朝早い時間帯にショートカットの女性とやってきた。珍しい時間帯だな、と思っていると片山さんが言ったのだ。『あー……ありゃ、朝帰りかな』女性の細い腰を抱いて密着して入ってきた様子を思い出すと、腹が立って今すぐここでぶちまけてやりたいと思ってしまう。言わないのは、静さんが悲しむのがわかってるからだ。彼女と歩く時、この二人はそんなにベタベタくっついて歩いたりはしない。他の女の人とそんな風に歩いてると知ったら……傷つくに決まってる。カラコロとカウベルが鳴って、お客様かと思ったら一瀬さんがビニールの袋をぶら下げて入ってきた。カウンターに座る二人を見て、薄く微笑むと「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」と挨拶を交わしながらカウンターまで辿り着き、私は野菜の入ったビニールを受け取ろうと手を差し出す。「買い出しお疲れ様です」「いいえ。ホールお任せしてすみません」ビニール袋が手渡される瞬間、不意に顔が近づいて一瞬どくんと心臓が鳴った。「何もありませんでしたか?」小声でそう尋ねられても、妙に狼狽えてしまった私はただ瞬きをして「えっと、何も?」と大した返事もできなかった。何か、っていうのが何をさしているのかもよく理解できなくて。それでも一瀬さんは納得したのか、一度頷くと「何もないならいいです。すみませんが
季節は春。通りの向こう側にある桜の木から、風に吹かれたピンクの花びらが舞い散る中、初々しい新入生らしい姿が緩やかな坂を上っていく。私は未だフリーターのままだけど、そんな季節を案外穏やかに見送ることができ、葉桜に変わったところで急激に気温が上がった。ツツジの花が色とりどりにあちこちで咲き始める季節、特にカルミアという花が私は好きだった。小さな蕾が密集して、すべて開くと白いパラソルが開いたようになる。……可愛いパラソル。こんな白い日傘が欲しいな。そう思いながら、今日も軽やかにカフェまでの傾斜を歩いた。「おはようございまあす。あ、マスター手伝います」「おはようございます。こちらは大丈夫ですから、カフェの方の準備をお願いします」店に着くと、一瀬さんが花屋スペースの掃き掃除をしてくれていて、近寄った私に目線でテーブル席の方を示した。私は「はあい」と返事をしてから、荷物をカウンター下の手荷物置き場に押し込みショートエプロンを腰に巻く。この頃は、以前より少し早めに店に来るようにしている。でないと、一瀬さんが花屋の方の片付けを全部ひとりでしちゃうから。掃き掃除なんかはやらせてくれるけど、お花の処分はやっぱり私にはさせないように考えてくれている気がする。今日も多分、さっきまでお花を刻んでいたんだろう。だって、私がしていたみたいに、まだ傷みの少ない花を落として作業台に置いてくれているのが見えたから。「……仕事だから、そんなに気にしないで欲しいのに」以前よりはずっとお客さんも増えてブーケや切り花も売れ始めたから、処分する数は減ったと思う。それでも、一瀬さんは自分で処分しようとして、私の手は煩わせまいとする。どうしても処分する切り花が出るのは、仕方ないことだと思うのに。私は作業台に置かれた花を手に取って、一瀬さんに振り返った。「マスター、これで今日はドライフラワー作ってもいいですか?」いつもは生花のまま飾るのに、と思ったのだろう。一瀬さんは不思議そうに首を傾げた。「ドライフラワーですか? 構いませんが……」「シリカゲルに入れたら、綺麗な色のまま乾燥させることができるんです。それをガラスの器に入れて飾ったら頻繁に入れ替えなくても済むし……」上手に作る練習にもなるかな、と思って。ドライフラワーをいれたフラワーボックスとか、例のセットで選べ
せつなかったのは、私の失恋に対してではなく、苑ちゃんの気持ちを想ったからで……自分自身の痛みではなかったことに気が付いた。それはきっと、このカフェの存在のおかげに違いないけれど。毎日この店に通って、優しい空気に触れて自分に出来ることを見つけて……姉や悠くんに依存していた心が少しずつ自然に、離れることが出来ているんだ。「ありがとうございます。何気に優しいですよね片山さんって」銀のトレーに水の入ったグラスを乗せて、ふふ、と笑ってみせると、片山さんはちょっと頬を染めて。「俺は女の子にはいつも優しいの」と、照れ隠し丸出しの発言をした。「はい、そうでした。いつも優しいですよね」初めて片山さんを揶揄できる立場に立ったとちょっぴり優越感を抱きながら、水のグラスを持っていこうと踵を返す。すると、悠くんが二人に手を振ってテーブルを離れるところだった。「あれ? 悠くん、帰っちゃうの?」少し大きめに声が届くように尋ねると、悠くんはこちらを向いて私にも手を振ってくれた。「姿が見えたから寄っただけ。ごめんね邪魔して」そう言って、足早にお店を出て行った。「なんだ。一緒にご飯でも食べに行くのかと思った」グラスの乗ったトレーをカウンターに戻しながら、私は少しほっとしたことは否めない。あの三人の構図が少し前の私達三人に見えて、私と同じ立ち位置になる苑ちゃんの気持ちを想うと少し胸が痛かった。もう一度、悠くんの去った二人のテーブルに目を向ける。私はそこで、まるで映画のワンシーンのような一瞬に目を奪われた。「……」声が出ない。苑ちゃんからはさっきの悠くんがいた時のような、棘さえ感じるような無表情は消えていた手元の花の香りに恍惚として目を閉じる姉の横顔に、そっと伸びていく細い指先。苑ちゃんの横顔はまるで何かを慈しむように和らいでいる。その横顔が、誰かのものに重なる錯覚に、私は目を瞬いた。「綾さん? どうかしましたか」一瀬さんのその声も、確かに聞こえているのになんだか遠くて、すぐには反応できなかった。指先が頬に触れて、気づいた姉が顔を上げる。何かを拭うように親指が動いて、すぐに離れていった。「綾さん?」「あっ、はい! すみません、なんでもないです」もう一度尋ねられて慌てて一瀬さんに向けて頭を振った。そしてすぐに視線を戻すと、苑ちゃんが親指を見せて
「ああ……本当ですね。こうしてみると、雰囲気が綾さんとお姉さん、よく似て見えます」「……あの。それってどういう……」それって私が見るからに甘えん坊ってことでしょうか。その通りだけどまさか一瀬さんにそんな風に言われるとは思わなくて、ちょっと唇を尖らせて拗ねた顔で拭いたお皿を一瀬さんに差し出した。すると、一瀬さんがふっと苦笑いを零してお皿を受け取る。「……そっくりですよ、その表情」言いながら視線を姉がいる方へと向けた。見ると、姉も私と同じように唇を尖がらせたまま上目使いで苑ちゃんを睨んでいた。「あんなに思いっきり、拗ねてないですもん」そう言って、きりっと表情を引き締めて見せると。すると、一瀬さんはいきなりくるっと背中を向けて、「ぶふっ」と吹き出し肩を震わせた。「ちょっ……ひどいですそんなに笑うなんて」「なになに、えらく楽しそう」恥ずかしくなって、顔が熱くなったところに片山さんも厨房から顔を出す。私はまだ肩を震わせる一瀬さんを指差して言った。「マスターが笑うんです、私が甘えん坊だって!」「え、それ今更笑うとこ?」「片山さんまでひどい!」確かにそうだけど、ずっと甘えてたけど!これでもちゃんとお姉ちゃんや悠くんから卒業しようと頑張ってるのに!そう思いながら、結局口元が自然と尖がる私は、きっと間違いなく子供っぽい。だけど、そんな私を見て片山さんはもちろん、一瀬さんまで楽しそうに笑ってくれたから、なんだか少し嬉しかった。最初は怖いだけだった一瀬さんが、この頃ちらちらと笑った顔を見せてくれることが多くなったから。だから、私は今のこのお店の空気が、とても好きだ。少しずつお客さんが増えてきているのも、そういうのが案外お客さんにも伝わってるのじゃないかなって思う。最近よく来る若いカップルさんも、カウンターで私や一瀬さんと話しをしてくれて、楽しいと言ってくれる。カフェのメニューやブーケは勿論、こんな風にお店の空気に惹かれてお客さんが来てくれるっていうのも、いいなって思えた。「わあ、綺麗! いい香り!」姉の少し興奮したような高いトーンの声が響いて、はっきりと耳に届いた。見ると手を口にあてて肩を竦ませながらも、ブーケを片手に嬉しそうに笑っている。「あ……あれ、お姉ちゃんにだったんだ」拗ねている姉のご機嫌をとる為のブーケだったのかと